スペンサー・デイヴィス・グループ結成
アイランドレーベルを設立したクリス・ブラックウェルは64年当時、自身がマネジメントするジャマイカの女流シンガー、ミリー・スモールの "My Boy Lollipop" をヒットさせていた。彼女の公演のためバーミンガムを訪れた際にブラックウェルは、すでに同地で活躍していたスティーヴ・ウィンウッドのプレイに大きな関心を示し、早速スペンサー・デイヴィス・R&Bカルテットに契約話をもちかけた。カルテットは同時期に、ブリティッシュブルーズの立役者であるマイク・ヴァーノンにも認められ、デッカにデモレコーディングを行ったが、最終的には同年の4月にアイランドと契約、マフのアイディアでバンド名をスペンサー・デイヴィス・グループに改めた。
プロミュージシャンとして新たにスタートした彼らは、8月にジョン・リー・フッカーの "Dimples" でシングルデビュー、3年の活動期間のうちに英国で総計9枚のシングルと3枚のアルバムをリリースした。5枚目のシングル "Keep On Running" を大ヒットさせてからは、一躍人気グループの仲間入りを果たし、レイ・チャールズばりのヴォーカルに、ギターやキーボードを巧みに弾きこなす弱冠17歳のスティーヴ・ウィンウッドは、天才少年として当時のミュージックシーンで脚光を浴びた。
しかしこの若さがスティーヴ・ウィンウッドの環境に影響したのは確かで、ほかの3人との年齢差から生じるギャップは、スティーヴが短期間でグループを離れたことの遠因にもなったようだ。後年マフは、「普通の少年らしい生活をまったく経験できなかったのは可哀想だった」との発言をしている。
エリック・クラプトンとの共演
スティーヴ・ウィンウッドはスペンサー・デイヴィス・グループ時代、様々なミュージシャンと交流を持ち共演もしたが、すでに大きな注目を集めていたエリック・クラプトンとは特に親しかったようだ。二人は互いの才能を認め合う良い意味でのライヴァルで、年齢が近いこともあり格好の遊び仲間でもあった。ロンドンでのギグではスペンサー・デイヴィス・グループのステージにクラプトンも加わり、スティーヴと二人でギターを弾いていたという。そんな時ほかのメンバーは後部でリズムをとっていたが、ギタリストのスペンサーにとってクラプトンの出現はある意味脅威だったようだ。
当時のスティーヴ・ウィンウッドとエリック・クラプトンの共演はパワーハウス名義で録音され、ホワイトブルーズのオムニバス盤 "What's Shakin'" に3曲収録されている。この時期のスティーヴはツアー好きではあったが、シャイな性格が特に目立っていたようで、ステージ上でもメディアの前でもあまり目立った行動はとっていない。
例えばローディーがマイクをステージの前方にセットすると、スティーヴ・ウィンウッドはすかさずそれを後ろに下げていたし、インタヴューに答えるのもほとんどがスペンサーかマフだった。また女性ファンからも常に身を隠していたようだ。後年スティーヴは「あの頃は本当に音楽だけにしか興味がなかった。楽器の演奏がとにかく楽しくて、自分はそれさえできれば良かった。面倒なことはほかのメンバーが全てやってくれたしね」と語っている。
最優秀新人シンガーに選出
ヒットナンバーを出してからのスペンサー・デイヴィス・グループの躍進は大きく、活動後期にはスティーヴ・ウィンウッドの意向で念願のハモンドオルガンを導入、"Gimme Some Lovin'" や "I'm A Man" に代表されるブルーアイドソウルの名曲を生み出している。この2曲の成功はオリジナル作品でも十分勝負できるという自信を、メンバーに確信させるに十分だった。
66年はグループの人気も高く順調に名声を獲得していた時期で、12月にはニューミュージカル・エクスプレス誌によりスティーヴ・ウィンウッドは最優秀新人シンガーに、スペンサー・デイヴィス・グループは最優秀新グループに選出されている。しかしそれと同時に、スティーヴの環境にも大きな変化が生じていた。後のトラフィックのメンバーや、アメリカから来た敏腕プロデューサーのジミー・ミラーとの出会いは、スティーヴの将来の方向性を示唆しており、現在のメンバーでの活動に見切りをつけようという考えも生まれ始めた。マフはスティーヴの意向を尊重し、二人の間ではその時期はほぼ決定していたようだ。
そして67年4月にウィンウッド兄弟はグループ脱退を表明、スティーヴ・ウィンウッドは音楽活動を一時休止するといわれたが、実際には新しいバンドとのセッションを開始した。マフはレコードビジネスに転向しアイランドに就職(現在は英ソニーミュージックの重役)、スペンサーとピートは新しいメンバーを補充して、スペンサー・デイヴィス・グループとしての活動を続けた。